やばい

やばい。

色んな意味でやばい。

予定が立て込んでいる。

しかも俺が計画した予定じゃない。

誰かが勝手に設定した計画にめちゃくちゃ振り回されている。

どこかでツケが回ってきたんだろうけど、にしても回りすぎ。

周回遅れもいいところ。

 

そろそろ低気圧のせいにも出来なくなるくらいやることが山積みなので、文章書いて気持ちを落ち着けてから作業に没頭としようと思う。

 

俺は実家暮らしなので、一日の行動時間はある程度限られている。

それは健康に良いことなので別になんとも思わないけど、如何せん家族の監視下に置かれ続けているので割と行動制御が多い。

それでも家族自体はあまり干渉してこないので、夜中になるとそこそこ自由な時間はある。

ただ俺の体力が持たずに2時半には気絶するように眠りにつく。

どんなに予定が立て込んでても発表や本番の前に精神的にも身体的にも参ってしまっては本末転倒なので、割と睡眠時間は摂るようにしている。

 

が、いまはもうそれどころじゃないのでちゃんと深夜作業をして、ある程度形になれば明日の自分に作業を預け、今日を生きていた証として寝る。

 

それをちゃんと出来るように。

いまは作業をするべし。

 

します。

すべてのありふれた光

モデルや女優にとても疎い僕が唯一といっていいほどの好きなモデルさんに夏海さんという女の子がいる。

彼女は6/19で21歳になったということは僕と同世代なわけだよ。

そんな女の子が写真集を作るために3月の下旬頃からクラウドファンディングで資金を集めていた。

僕はバイトをしていなかったから本当にお金が無さすぎて、そのクラウドファンディングには参加できなかったのだけど(今になってやっとけばよかったなってちょっと後悔してる)最終日に、目標金額を達成し大成功を収めた。

僕はクラウドファンディングをすることも知っていたし、彼女が毎日宣伝をしていることも知っていたから、彼女の可愛いが誰かに届くようにと微力ながらもRT等々しながらひっそり応援していた。

約3ヶ月の同行と達成した際のインスタライブ等も見ていたし、1番の核の部分にいなかったものとはいえ、彼女が涙を流す姿に、ひどく感銘したしこっちまで泣きそうになった。

 

その日、Twitterにも似たようなことをツイートしたんだけど、同世代の女の子が毎日コツコツと宣伝をしてギリギリで達成するドラマのような展開にすごく励まされた。

彼女ほど大きな話ではないにしろ、世界中の一人一人がそういうものと戦いながら毎日を生きている。現代は多分そういう時代。

 

僕はGRAPEVINEというバンドがめちゃくちゃ好きなんだけど、彼らの楽曲に「光」という単語がよく出てくる。

 

光は時に自分を騙し、自分を満たし、誰かを満たす。

その都度、姿かたちを変えて目の前に現れる。

前置きが随分と長くなったけど、今回言いたいことはここにある。なんのこっちゃだよね。

 

当たり前ですけど、光って実体ないんですよ。

だから捉え方も十人十色、人それぞれなわけで。

 

僕が憧れている人は僕にとっての光だし、手を伸ばしても届かないことが多いのもご愛嬌、誰しもによくあるお話。

 

でも僕はそこで終わりじゃなくて、いつか自分も誰かにとっての光にならないといけないんだとずっと思っている。

 

誰かの憧れになり、誰かを支える。

そういうものになっていかないといけないんだろうなって。僕ももう20歳、甘えられる時期は過ぎ去った。

 

容易なことじゃ決してないし、それが原因で大事な何かを失うリスクだってもちろん伴うんだけど、それがないと人選多分つまんないからやるしかないんだなぁとか思ったり。

 

物事は綺麗に帰着することは多分無いのでこの辺にしときます。

 

最後に

 

僕は憧れに届くまでずっと手を伸ばしてるので、ホントに待っててください。

 

そして、僕を光だと思っている未来の人には「ここで待ってるよ」と伝えます。

 

しゃらくさいかもしんないけどそうなんだよ。

 

https://youtu.be/LER9qtUth54

 

 

風待ち

最近レトロゲームの記事を漁るのにハマっている。

僕は昔のものが好きで、レトロな雰囲気のものとかじゃなくて、本当に昔のもの。現物が好き。

昔からそこにあるものだとか、何十年も前に使ったっきり押し入れにしまったままのものだとか、そういったものに強く惹かれる。

 

昔のものって今に至るまでの年月があって、その年月が長ければ長いほど多くの歴史を経験してきたわけだ。

そこにドラマだとか、ロマンだとかを感じる。

ただ、当時に友人の家で一緒になって遊んだ思い出なんかが蘇るのは経験をしてないと出来ないことだということも同時に感じる。

 

駄菓子屋で買ったお菓子、お金持ちの友達と一緒にやったゲーム、会えなくなったあいつとか、どこにいったかも知らないようなやつ。

 

あの時に思ったこととか感じたこと、あの時の景色はあの時に置き去りになってる。

 

ノスタルジックな気持ちにだけなっても仕方ないんだけど、あの日の気持ちを上手に思い出せずに、みんな俺が知らない間に同じように時を過ごしてるんだなって思うと、置き去りになってるのは気持ちとか景色だけじゃないのかもしれない。

 

たまには連絡でもしてみようかな。

見れるなら顔も見たい。

 

置き去りにされた距離を埋めるために色んな話をしたい。

 

みんな思い描いた通りになってるかな。

俺はちょっと違うけど。

みんながひとつになれたらいいなぁ

人間関係を形成することが増えて、自分は本当にコミュニケーションというものが苦手なんだということを痛感される日々を送っている。

これはもうホントに「障害」の領域だなと。

 

コミュニケーション障害は単にお話をするのが苦手な人だけのものじゃなくて、話をするとどっと疲れたり、なんなら自己中心的に会話を展開してしまう人たちもその部類に入るんだろうな密かに感じている。

思い当たる節が多すぎるから。

 

そんな中でも、本当に他人の悪口を聞くことが増えた。

僕って今まで人の話を全部聞いてるふりをしてたの?ってくらい人の悪口が耳からも頭からも離れなくなっていく。

 

 

事実、僕も人の悪口は言うし嫌いな人もいる。

なんならみんな基本的には嫌いだ。

それでもやっぱり周りの悪口を聞くのは好きじゃないなと感じた。

別にこんなことを偽善の心で言ってるわけじゃないし、誰かに説教くさい講釈を垂れようとも思っていない。

ただ、本当にそういう状況を肌で感じて、周りが流動するかのようにそういう方向に持っていこうとする流れは正直見てられない。

 

昔を思い出すからなのか。

自分にもそういう経験があったからなのか。

 

答えは出ない。

出たらこんなに悩んでない。

 

「察しろ」なんて言うのはコミュニケーションでもなんでもないただの独りよがりじゃないのかな。

 

 

自分もどこかでそういうことを言われてるんだろうなということはわかる。

でもそれに関しては興味が無い。

僕は元よりみんなが繋いでる輪の外で独りでヘラヘラしてるだけの人間だから何を言われようが知ったことではない。

 

でも同じ輪の中にいる人達が陰湿なのは見てるこっちが気持ち悪い。

生憎、蚊帳の外は景色が良いのでそういうのはよく見える。

 

 

みんながひとつになれたらなぁという幻想を抱いてはいるものの、僕一人の手ではどうしようもないので、みんなが仲良く手を繋いでる夢を見ながら自分だけの最高の楽園を作ります。

鮮やかなこと

令和元年初日、地下一階というライブハウスに初めて足を踏み入れた、The Whoopsを見るために。

大阪に来る度に必ず行くと誓っているこのバンド。

これはもう正直意地。

何があっても行くんだと心に誓った唯一のバンド。

理由は色々とある。

 

単刀直入に言うと、今回の彼らのライブは凄まじく良かった。

いつも良いのは周知の事実なのだけれど、この日は本当に良かった。

言葉が出ないほど迫力と緩急、相変わらず聴かせるのと盛り上げるのが絶妙なバランスで備わっているバンドだなと感じる。

あまりにも良すぎたためか、普段ならしなくなったセトリを貰う行為を久しぶりにした。

深層心理の中で何かしらの形を残したかったのかもしれない。

 

こういう時に限らず、僕は楽しかった日や色んなことを感じた日は記憶ではなく思い出にしたい節がある。

だから写真を撮ったり形になるものを貰ったり買ったりする。

記憶としてだけじゃない何かを自分の頭の中に残したいんだろうなと改めて感じるようになった。

 

あの日は特に人との繋がりを感じた。

HOLIDAY!の植野さんに何故か覚えてもらってて、自分の夢や目標のことについて何故か相談をしたり、アフターアワーズのメンバーと友人の話で盛り上がったり、主催者のタキタさんとフープス経由で色んなお話をしたり、東京少年倶楽部のCDを買ったり。

小さなライブハウスに通っているとたまに忘れたくても忘れられないような経験をするこういう日みたいなことが訪れる。

 

こういう日は、僕にとってはただの記憶じゃ終わらない一日になる訳で、

いつでもどこでも彼らの音楽を聴くとあの景色とあの空気感がずっと残っている。

 

でもそこは3年前、初めて彼らを観た時から何も変わってはいない。

 

"あなたにとってはそれは記憶で

僕にとってはそれは思い出で

鮮やかなこと"

The Whoops「渚」より引用

いきるについて

人が死んだ。

みんなが悲しんだ。

でも僕は生きてる。

 

誰かが死んだ。

その裏では誰かが命を授かった。

僕は息をしている。

 

同級生が死んだ。

知ったのは随分と後だった。

僕はまだ生きてる。

 

誰かが死にたいと呟いた。

僕も死にたいと思った。

でも僕は生きている。

 

誰かのために生きるとか

自分のために生きるとか

考える余裕ははっきり言ってない。

 

「多分、人はどこかで自分が生きている時代と一体化している。」と故 橋本治は自身のエッセイで語った。

 

そういうものなのだろうか。

 

今日も誰かが節目を終えて、

今日も誰かが命を授かり、

今日も僕らは明日へと歩き出す。

 

もうすぐ一つの時代が終わる。

生活ってなんだろう。

いきるってなんだろう。

足りないは寂しい

卒業生さんの追い出しコンパが終わり、ついに卒業生さんとのイベントは卒業ライブを残すだけになってしまった。

 

卒業生さんがいつもそこにいた場所からいなくなるのはもちろんなのだけど、周りにいる人達が新年度をきっかけに同じくいなくなってしまうかもしれないみたいなニュースがここ数ヶ月程で次々に飛び交ってきた。

 

誰かがいなくなるのは寂しい。

それがどんな人であれ。

 

俺は全ての関係の輪の中に入れていたわけでは無い。

むしろ人間関係を築くのが苦手だし、コミュニケーションの輪に入ることを深層心理では嫌っている。

 

でも輪の外からいつもみんなを見ていたので、その団結していた輪から1人,また1人と誰かがいなくなってしまうことに人間の虚しさを感じる。

 

その中には

自分の未来を決めた人。

決めていた未来に立つために進む人。

もいる。

 

俺にその歩みを止めさせる権利はない。

 

だけど、あなたが欠けてしまった時に寂しい、虚しいと感じる人がここにいることを忘れないでください。

 

今はそれだけで良いです。